野田村で、養豚事業を受け継いできた株式会社のだファーム。昭和49年に設立した農事組合法人野田協業養豚組合から平成30年に株式会社のだファームに組織を変更。令和6年には創立50周年を迎えた。代表取締役の平谷東英さんは、多くの関係者によって支えられてきたことに「感謝」の気持ちを伝え、未来に向け新たな歩みを進めている。
平谷さんが生まれた野田村は岩手県の沿岸北部に位置し、実家では35頭規模の養豚とリンゴ2.5haを作付していた。「当時は、出稼ぎをしないで済む営農の形として、養豚経営が推進されていて多くの農家で豚が飼育されていた」と話し、昭和52年には、175戸の養豚農家があった。
平谷さんは次男だったこともあり、学校卒業後は関東で建築関係の仕事をしていた。「将来はここで生活していくつもりで土地を購入し、ローンの返済も始まっていた」と当時を話す。しかし、そんな平谷さんに想像だにしない話しが舞い込んできた。父からの連絡で、「長男が家を継ぐと思い豚舎を建てたが、確認を取ってみたら実家には戻らないと言われた」という話しだった。長男を当てにして建てたので、両親だけでは経営が難しく、次男の平谷さんが実家に戻り、養豚の仕事を始めることになった。
突然の話しではあったが、当時は「どこで何をやっても、食べていけるという気持ちだった」と話す。それは29歳の時だった。実家に戻ってからは、両親がリンゴの栽培を、平谷さんが養豚を経営した。
当時は養豚組合とは別の契約生産農場としてスタートしたが、その後に統合し、平成14年には組合長に就任した。当時は生産者の減少により出荷頭数も減り始めており、将来の生活基盤の強化を図るため280頭規模のSPF豚舎を建設した。このことが、産地の競争力維持にもつながっていた。平成19年には、野田村産新銘柄豚のネーミングを公募し「南部福来豚(なんぶふくぶた)」の地産地消ブランドも誕生した。
しかし、最大26戸あった組合も、組合員の高齢化や後継者不足で、3戸まで減少していった。産地として出荷頭数を維持していくため平成30年に「株式会社のだファーム」として新たなスタートを切り、母豚1,000頭、24,000頭の出荷を目標とした。
「豚肉はエサによって味が変わる。出荷規模を維持拡大することで、指定したブレンドのエサを使うことができる。東日本大震災では豚舎の被害は少なかったものの、エサを選ぶことができず、『南部福来豚』として出荷ができなかったことは忘れない」と話す。
令和5年には出荷頭数24,000頭を超え10億円の販売を達成している。様々な困難もあったが「振り返れば、知ったかぶらずに相談すれば、誰かが助けてくれたと感じている。感謝の気持ちしかない」と話す。現在は、自前の管理獣医師の設置やHACCP(ハサップ)の認証への取り組みなど、先を見据えた経営を進めている。今年、新社屋も完成し、25人の従業員と共に新たな歴史を刻み始めている。
映画が好きな平谷さんは、自宅でプロジェクターと120インチの大スクリーンで楽しんでいます。
※広報誌「夢郷」 2024年11月号掲載時の情報です。掲載情報が変更となっている場合がございます。