震災を越えてイチゴと出会う
東日本大震災から8年、復興の槌音がいまなお響きわたる陸前高田市。目の前には厳しい現実も横たわるが、南三陸の温暖な気候を活かしてイチゴ栽培に取り組んでいる松田俊一さんが、今回の未来農業創造人だ。
海辺の街に育った松田さんは、船乗りのお父さんは留守が多く、実家は野菜を作っている程度で農業とは縁遠かった。秋田の大学を卒業後、会社勤めをしていた松田さんが故郷に戻ったのは震災のちょうど1年前のこと。「祖父母が高齢になって畑作りが大変になったこともあるが、近くにできた産直に母親が出荷しているのを見て、農業は面白そうだと興味を持った」と言う。
帰郷した松田さんはさっそく行動を起こし、市の営農センターに研修を申し込んだときに街が壊滅する大津波に襲われる。直後は市の臨時職員として復興関係の仕事に従事し、ようやく研修先が見つかったのは半年後だった。最初は市の振興作物であるキュウリ農家を研修先に選んだが、間もなく近くのイチゴ生産者が病で倒れ、パイプハウス等の施設があるから続けてくれないかという話が持ち上がった。
「収穫が目の前だったので周囲から有無を言わせずやれと。それがイチゴとの衝撃的な出会いです」と笑う。「その方が後継者を探していたこともありイチゴとキュウリ、水稲も引き継いでやめるにやめられず、いつの間にか専業農家になっていた」と、怒涛の日々を振り返る。
高設栽培と仲間づくりにかける
当初はキュウリとイチゴが中心の経営だったが、「キュウリは市も力を入れており、JAの生産部会もあるので安定が望めるけど、1年を通して考えるとイチゴのほうが自分のリズムに合う。冬が温暖で夏は冷涼なヤマセが吹く気仙の気候も活かせる」と、現在はイチゴ1本に絞って栽培面積は20aに拡大した。
そして2017年冬、それまでの土耕栽培から高設栽培へと大変革に踏み切った。新施設に移行するまで収入が途絶える時期もしのいで、2018年春に完成した4連棟の広大なハウスに、今は燦燦と太陽光が降り注ぐ。「借りていたハウスがもう古かったし、この先10年を考えたら高設のほうが一緒に働いている母の作業も楽になる。自分は考えているよりやったほうがいいという実行派ですから」と松田さん。ハウス内はパソコン、スマホと連動して温度・湿度調節など環境制御ができるICTも導入している。
「これで出かけやすくなり、いろんな活動もできるようになった。気仙には“かばねやみ(怠け者、面倒くさがり)”という方言があるけど、自分が目指すのはまさにかばねやみ農業なんです。つまり、効率的で省力化の農業。そうじゃないと若い人は魅力を感じないと思う」と、松田さんは積極的に先進的な農業に取り組んでいる。
農業に就いて7年。「技術を覚えて、新しいことにチャレンジして自分だけの世界にいたけど、段々仲間が欲しくなった。自分の仕事をアピールできて、さらに農業の仲間が増えたらいい」と、2019年1月には市内の若手農業者とともに「陸前高田食と農の森」を立ち上げた。「作目が違う人も新規就農の人も集まって情報を交換し合い、知識や技術を高めようというグループです。何より若者の発言の場を設けたい」と力強い。
「今後は陸前高田のキュウリだけでなくイチゴも豊洲に行くようにしたいし、6次産業化も視野に入れていきたい」と目標を掲げる松田さんは、復興の街で農業の未来を照らし始めた。
プロフィール
松田俊一さん
1984年陸前高田市生まれ。住田高校を卒業後、秋田経済法科大学に進学。秋田で4年間会社に勤めた後、2010年に帰郷。東日本大震災後は市の臨時職員として復興の仕事に携わる。2011年秋にイチゴ農家のハウスを引き継ぎ、就農する。2018年に土耕栽培から高設栽培に移行。2019年1月に市内の若手農業者とともに「陸前高田食と農の森」を立ち上げ、会長に就任。
JAへの要望
営農部には新しい出荷先の開拓を望むとともに、イチゴの新品種の開発にも取り組んでほしい。また、申告にかかる税理士のサポート事業などの情報があるとありがたいです。