米づくり、そして文化
佐々木 恵利佳
陸前高田市立高田東中学校2年
去年の大晦日のこと。家に門松が届けられた。高さが三十センチくらいの小さなものだが、松、竹、梅があり、南天の実や稲穂が彩りを添えていた。それは、近所に引っ越してきたおじさんが、わらをもらったお礼として作ってくれたものだった。全てが手作りで、材料も地元のものを使っている。特に、わらで編んだ縄はみごとなものだった。私は、正月用のしめ縄は「わら」で作られていることに改めて気づかされた。
わらは、稲刈りの後、脱穀して茎のみを乾燥させたもの。新しい年を迎えるにあたって、わらで縄を編む。編んだ縄に、松葉や紙飾りをつけて、しめ縄になる。
母から、しめ縄作りについて話を聞いたことがある。母の祖父は、厳格な人だった。母が幼少の頃、しめ縄作りは祖父の仕事で、毎年恒例になっていた。十二月の半ばを過ぎると空気が張り詰めてくる。祖父が、しめ縄作りに取り掛かるからだ。まず、太さや長さのそろったわらを選別することから始まる。次に、わらをつぶさないように丹念にほぐしていく。こうすることで、わらの硬さがとれ、編みやすくなる。いよいよ編む段階になるのだが、祖父は、手をきれいに洗い、うがいをして、自分自身を清めた。特別なものを作るという祖父の気持ちが分かる。祖父の性格が表れている。そして、手を水で湿らせ、数本のわらを手の平で、もむようにして、より合わせていく。無心でよったしめ縄は、みごとな出来栄えだったという。
わらが、しめ縄の材料として用いられたことは必然のことと思う。米を作ることは容易なことではない。五月の頃に田植えをして、収穫するのは、十月頃。田植えをする準備まで含めると、半年は優にかかる。収穫までには、台風や干ばつ、低温などの自然災害に見舞われることもある。手間をかけて収穫した米のありがたさは、言うまでもない。米は大切な主食となる。わらは、捨てられることなく神聖なものとして見事に生かされた。わらの持つ、保存ができるという特性は勿論のこと、神と関連する物としてふさわしかった。
私の住む陸前高田市は、震災から三年余りになるが、津波で田んぼが被害を受け、米づくりができない状況が続いている。被害は、半端ではない。埋もれてしまった田んぼの土砂やがれきの撤去作業だけではなく、塩害が課題となった。除塩作業を行って、やっとのことで田んぼとして使える。このような作業をくり返し行い、一年、また一年と田んぼが少しずつ元に戻っている。「米づくりをしよう」という強い思いが分かる。
田植えの時期には、青々とした田んぼが、そして稲が実る頃には、黄金色の田んぼが広がっている。四季折々の風景をかもし出す田んぼ。稲の成長は、力強さを私達に感じさせ、生命力をもらっていると思う。
米づくりは、時間と労力を要する。ある時は、大自然との戦いである。苦労がむくわれずに、収穫がゼロの可能性も考えられる。このことは、米づくりが始まった頃から、現代に至るまで、永遠の課題であると思う。
津波で田んぼに被害を受けた人達は、根気強く、一からやり直している。私から見れば、気が遠くなるような作業の連続だ。このような一人ひとりの努力や情熱が、日本の米づくりを支えている。
いただいた門松には、おじさんのメッセージが添えられていた。
――米が豊作でありますように――
あたたかい心遣いが感じられる。私も願う。
――大きな台風で、稲が倒れませんように――
米づくりをしている人達の思いは、もっと深刻なことだろう。
今日もおいしいご飯を食べられることに感謝して、
「いただきます。」