米づくり ―陸前高田市からのレポート―
佐々木 恵利佳
陸前高田市立高田東中学校1年
七割。この数字は、陸前高田市が東日本大震災の津波による水田の被害を表す。そして今も、海の近くにあった水田は、雑草が生い茂っていたり、土が盛られていたりという現状である。改めて被害の大きさを知る。
今年五月のこと、嬉しくなるできごとがあった。通学路から少し離れている土地が、整地されて、再び田んぼによみがえっていたのである。気がついた時には、田んぼに水がはられ、田植えが終わっていた。震災から二年ぶりに、青々としたイネを見ることができた。今でも、整地するために、ブルドーザーが動き、大型トラックが行きかっている私の町。元の通りの田んぼになることは、予想外だった。更に驚かされたのは、ボランティアの人達が田んぼをよみがえらせようと、手作業で片付けていたことだ。ボランティアの人は、
「大きな石はもちろん、ガラスや日用品など、いろいろな物が埋もれていた。米づくりをしてほしいという願いから、作業を行った。」
と話していた。また、津波による海水がしみ込んだ土の除塩の作業も大変だったという。こんなにもたくさんの人達が苦労して元にもどった田んぼ。田んぼの持ち主のコメントが新聞に掲載されていた。
「――いろいろな人の支援があったからここまでこれた。ありがたいですね。温かい支援を受け、ふさぎ込むばかりじゃなく前向きに取り組まなきゃいけないと思った。この経験を絶対に忘れない――」
米づくりをしている人達の心まで考えた支援は、本当にすばらしいと痛感した。
七月のことである。夏だというのに、低温続きと日照不足の日々。このため、イネの成育が遅れてしまった。私は、平成五年の「米不足」のできごとを家の人達から聞いた。
「平成五年、北日本を中心に冷害に見舞われた。それに加え西日本を中心として台風の影響と長雨。更に、全国的に「いもち病」の発生とこれまでになくイネが大きな被害を受けた。そのため、米が輸入され、国内産の米の値段が高くなった。」
それが、平成五年のできごと。お米屋さんから、米が消えてしまったというニュースも流れたそうだ。今年と平成五年の天気が、あまりにも似ていて、母の職場では、毎日イネの育ちと天候の話題が続いたそうだ。
八月になり、田んぼは、大きな打撃を受けてしまう。今度は大雨である。大雨が降り続き、川がはんらんし、田んぼに土砂が流れたり、イネが水につかってしまうといった被害を受けた。近所でも田んぼが流され、水が引くのを待って補強したそうである。私の家でも心配になった祖父が夜中に田んぼを見回り、どんどん流れてくる水をくい止める作業をした。夜なので、あたりは暗く、私は、かい中電灯で照らした。もう少しで、水があふれてしまうところだった。次から次へと田んぼは大きな影響を受けて、気が安まる暇がない。幸いなことに、大雨の後、夏晴れが続き、イネの成長は回復した。
そして、平成二十五年九月。イネは黄金色になり、稲穂はこうべを垂れている。気のはやい田んぼには、もう「カカシ」が立っている。まだまだ安心できないのは、これから台風シーズンに入ること。イネを刈り取るまで、約一ヶ月。一ヶ月後は実りの秋にしたい。
陸前高田市では、少しずつであるが、田んぼがよみがえっている。来年には、更に田んぼが整地されているかもしれない。年数はかかるかもしれないが、被害を表す数値が減少してくれればいいと思う。
県外から来てくださったボランティアの人達にも、イネが実った田んぼを見てほしい。
米づくりをしている人達が元気になる、陸前高田市になってほしいと願う。